
確かに事件につながる可能性は否定できないかもしれません。
でも、事件を起こしてしまうようなアニメオタクは非常に無責任だと思います。
だってアニメの存続に悪影響だからです。
でも、そんな、趣味ばかりに没頭して犯罪まで起こせるひとって、なんだか恵まれてて幸せ者ですね。。
普通、まともな社会構成において、自分の好きなこと、やりたいことばっかりまわりを巻き込ん手で、悪影響を与えてしまったら、正直大迷惑だし、社会の均衡がくずれてしまうと、一気に崩れかねないし、守ろうとしても犠牲をともなう。
でもこういった現象はなにもアニメに限ったことではないとおもう。
昔、外国で、かの有名な「罪と罰」という小説に衝撃を受けたらしい人物が国の重要人物を暗殺した史実などもある。
ひとの価値観などは様々だけど、それでも調和をはからないと、たいへんなことになりそうで、すごく怖い。
しかし、日本のアニメは日本が世界に通用する数少ないものだと思っている。
いまの私にとっては、アニメは娯楽ではなく、教科書のようなものです。
アニメから学べることはたいへん多く深い。



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主張には同意ですが「可能性」の遣い方には首を傾げます。
よく考えてみてください。
「事件」に「可能性」なんて酷い表現だと思いませんか?
「可能性」は「良い事象のみに」用いるものです。
「恐れ」「リスク」「危険性」「疑い」「確率」「蓋然性」など
日本語にはこれだけの言葉があるので
悪い事象にわざわざ「可能性」を遣う必要は微塵もありません。
とは言え私も以前は何の疑いもなく一括りに「可能性」を遣っていました。
ですから気付きにくいというのは理解しています。
ではなぜ我々がその酷さに気付きにくいのか。
マスコミが一様に「可能性」を用いているからです。
特にネットニュースは悲惨です。
マスコミに疑いを持ち、批判している人でも「可能性」を遣っていることが多く
無意識に言葉を刷り込まれてしまう恐ろしさを感じます。
出来事として「ある」なら「可能性」で構わないと言う人もいますが
この記事を見てもそう言えるでしょうか。
■『可能性』と『恐れ』はどう違うか?
http://plaza.rakuten.co.jp/chenpitao/diary/201105220000
東電福島原発のニュースでは、例として
「メルトダウンの可能性がある」という表現が目立ちます。
私の言語認識では、この表現は「メルトダウンが起きてほしい」と同義です。
私が言うならば、「メルトダウンの恐れがある」です。
『可能性』の乱発には、なんとも違和感を覚えてしまいます。
この違和感を覚えるのは、幸いにして私だけではありません。
『Yahoo 知恵袋』では、利用者の疑問、質問に、別な複数の利用者が回答しています。
上記のように、場合によっては非常にデリカシーを欠いた表現になるのです。
今の私は「死に至る」「可能性」なんて平気で書ける人に怒りを覚えます。
>いまの私にとっては、アニメは娯楽ではなく、教科書のようなものです。
>アニメから学べることはたいへん多く深い。
全く仰るとおり。
学べるか否かは受け手の姿勢に依るところが大きいと考えます。
ですから送り手が情報やメッセージを盛り込んでいたとしても
まるで読み取らない、あるいは読み取れない視聴者が脊髄反射的に
「つまらない」「中身カラッポ」とネットで発言しているのには辟易します。
「可能性」で思い出しましたが
『アルドノア・ゼロ』で「可能性」を連呼する部下に対し
上司がその言葉選びを咎めるように「可能性、可能性......」と返し
真意を確かめるシーンが印象に残っています。